『その国にあった支援の形を』
初めてのカンボジアは毎日が初めて見るものばかりで、刺激的すぎて本当にあっという間であった。つたない英語やボディランゲージ、初めて見るアンコールワットなど思い出は尽きない。しかし残った印象は良いものばかりではなかった。都心部は道がコンクリートで舗装されていたが、少し走った農村部はいまだに土の道が多かった。またその道中に様々な支援していると思われる先進国の国旗が掲げてあった。この国は支援によって成り立っているんだなと感じた。最初のうちはその日本やアメリカからの支援は素晴らしいものだと信じて疑わなかった。。しかし小児病院を訪れたときにその考えは疑問に変わった。その小児病院は無料でカンボジアの子供達に医療を提供していた。しかしその病院にかかる費用のほとんどが海外からの寄付によるものだった。その話を聞き、もし海外から寄付がなくなってしまったら、小児病院は無料で医療を提供できなくなってしまうなと思った。つまるところ、海外からの寄付の恩恵を一番受けているのはカンボジアの人々でありながら海外からの寄付の危険を一番受けているのはカンボジアの人々ではないか?ということである。そんなリスクが多い危ない橋を自ら渡らざる負えなくなっているカンボジアという国は大丈夫なのだろうか?これは小児病院に限った話ではない。僕らが走った道路も日本人が作ったらしい。そんな道路の歩道には点字ブロックがあった。いかにも日本人らしいと感じると同時に、現地の人々が点字ブロックの上に花壇やバイクを置いているのを見て、カンボジアの人は点字ブロックの用途を理解しているとはいいがたい現状を見た。これではこの支援の形は正しいのかわからない。とここまで書いたが、もちろん支援をカンボジアなどにすることは素晴らしいことである。僕が思ったのはその支援の方法は果たして正しいのか?ということだ。よくある例で例えると魚が欲しい人々には魚ではなく魚の釣り方を教えるということだ。この場合だと点字ブロックを与えるのと同時に点字ブロックの正しい使い方をカンボジアの人々に教える、又小児病院を完全に支援に頼って運営するのではなく、カンボジアとして運営できるようにノウハウを教えるなどである。支援は将来的にカンボジアの完全な独立を目指すものであって、支援に依存させるものではないはずだ。ここでいう独立はカンボジアが国の機能を完全に自分で回すことである。ではなぜ日本などの人々はカンボジアなどの国にこんなにも支援をするのだろう?カンボジアに支援をしたとして個人的にリターンが得れるとは考えずらい。これには人間のある欲求が関係すると個人的に思った。カンボジアなどの国に支援をすることで気分はやはり良くなるものである。これを道徳心とかたずければそれまでだがちょっと違う気もする。やはり支援をするときに大きく形になるものを支援すれば気持ちはその分いいだろう。しかしそれは果たして本当にカンボジアが求める支援の形なのだろうか?一方的な善意の押し付けになってないか?そんなことを感じた。また復興という面においては日本と同じものも感じた。戦後焼け野原から日本は見事復興を果たしたこれにはカンボジアも同じことが言えそうな気がする。それを教えるだけのノウハウを日本は持っているということだ。当然学生が勝手に考えたことであり、指摘すべき点も多いと思う。またよくない点のみを取り上げて一方的に意見を述べるのもちょっと違う気がする。しかし手を差し出すのではなく手を差し出し引っ張ることこそが支援のあるべき形ではないか?そんなことを学んだカンボジア研修であった。
大変満足
将来の進路に活かしたい
一生モノの学びになった!
視野が広がった!
学校の推薦
始めて行ったカンボジアは刺激的なことが多すぎてあっという間でした。小学生との交流、慣れない外国人との会話や値切り交渉など思い出は尽きません。しかしいい思い出と同時に様々な歴史や文化に触れ、いろいろな面を持つ面白い国だなと思いました。またこれを受け様々な考えや思いを巡らしたりしました。あと星がきれいだったです。
ここで受けた思いや経験を通して人生においての視野を広げていきたいと思いました。
間違えなく有益なものになると思います。