『空腹と飢餓』
飢餓で苦しむ人は世の中に存在してはならない。高校生である私たちに、世界を変えるほど大きなことは出来ないかもしれない。しかし、身の回りから変えていけることがあるのではないだろうか。
飢えに苦しむ人の数は全世界で2019年に約6億9,000万人にのぼり、2018年から1,000万人、5年間で6,000万人近く増加したとユニセフから発表されている。学校の授業でこのことを教わった際、空腹と飢餓を同じだと考えている人がいたことに私は衝撃を受けた。確かに、空腹も飢餓も栄養が足りていない、胃にものが入っていないという点では同じかもしれない。しかし、飢餓で苦しむ人達は命がかかっているのだ。先にも述べた通り、高校生である私達に世の中を変えるほどのことは出来ないかもしれない。しかし、身の回りから変えていくことはできるのではないだろうか。残飯を無くす・無駄な消費を減らすなど、ありがちな話かもしれないが、日本国内の食品ロスは年間643万トンにものぼり、日本人の一人当たりの年間食品廃棄物量は世界で第6位、アジアではワースト1位という驚異的な数字になっている。かくいう私も、弁当をたまに残してしまったりもする。しかし、この数字を見て、飢餓で苦しむ人達を画面越しにとは言え見て、当然これは他人事ではないのだと気付かされた。そしてさらに、「腹が減っては戦ができぬ」と古くから言われるように、何をするにしても満足な食事は必要不可欠だ。裏を返すと、飢餓の人々は戦ができないということなのではないだろうか。何もこれは戦争を始めようなどということではなく、奮起しようと思ってもできないという、もっと根本的なところに影響を及ぼしてしまう。
1度幼少期にタイに旅行で訪れたことがある。その当時、異国の文化に触れたいと思っていた私は思い切って現地の床屋へ訪れた。そこは少しインド人街のような住宅街の中にあり、貧しそうな人もいた。ここまで聞くと誘拐、恐喝など恐ろしい印象を受けるかもしれないが、そんなことは全くなかった。英語が流暢でなかった私の英語を丁寧に聞き取り、考え、返事をしてくれた。これは少し人種差別の問題にも繋がるかもしれないが、不当な扱いを受け、低賃金での労働を強いられて仕方ないような人達では決してなかった。私が住む松山でも、近年中東の人が増えている。ここでは控えるが、とてもいい人ばかりだ。だが実際、祖国では多少なりとも苦しい生活を強いられたそうだ。
このように、飢餓で苦しむ人には何の罪もない。そればかりでなく、根の優しい人ばかりだ。そんな人達が生まれや親の職業など出生の理由で飢餓に苦しむのはおかしいのではないだろうか。私たちも、生まれる場所が違えば飢餓に苦しんだかもしれない。他人事では無いのだ。無力さを感じる事だが、高校生である今、大きなことはできない。少しづつでもいい。残飯、ゴミの分別、無駄な消費を抑える、など今からでもできることはあるのではないだろうか。