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コソボ紛争は1996年から1999年に行われた紛争です。ユーゴスラビア軍とセルビア人勢力、コソボ独立を求めるアルバニア人テロリストであるコソボ解放軍の間によって行われました。
セルビアにはスラブ系民族のセルビア人が多数住んでいるのですが、コソボにはアルバニア人も住んでいます。かつてアルバニア人が住んでいたエリアは非常に広かったのです。コソボはかつてはセルビア人が沢山住んでいましたが、オスマントルコの支配によってアルバニア人が移り住んだという経緯がありました。セルビア人にとっては自分達が最初から住んでいた国と感じており、アルバニア人も自分達の領土だったのにという意識があったのです。そのため民族間には根深い対立構造が作られていきました。第一次世界大戦や第二次世界大戦では、大規模な武力衝突が起きています。
1980年には政治的に非常に不安定な時期が続きました。経済危機だけでは無く、民族主義者による状況の悪化が続いていました。1981年にはアルバニア人の学生が暴徒化した事件も起きており、それがきっかけとなってコソボ全体で大きなデモが生まれて大きな混乱をもたらしました。
コソボの経済状態は悪化し不安定化することでコソボの中でセルビア人の雇用も少なくなって行きました。アルバニア人もセルビア人も、同じ民族ならば積極的に雇用をしましたが、違う民族ならば雇用しない状態が続いたのです。アルバニア人の民族主義は広まっていき、分離主義も生まれるようになり、小規模な衝突が増大しました。セルビア科学芸術アカデミーが調査した結果では、コソボを去っていったセルビア人の理由を見ると、アルバニア人による追放圧力が背景にあったと結論づけられています。
セルビア全体からみればアルバニア人は多数派です。しかしコソボはセルビアの1つの地域だけでしかありません。ですから役所でもセルビア語で無ければ対応してもらえなかったり、良い仕事も得られませんでした。政治に関してもほとんどがセルビア人に独占されている状況です。アルバニア人としては多数派という意識も有り、不公平感が非常に募ってしまって独立を求めました。しかしセルビア人は独立を認めずに、コソボ問題が生まれてコソボ紛争に繋がって行きました。コソボ紛争は継続してヨーロッパの頭痛の種になっています。なぜならば難民となった人々が移って来ると、経済的な問題などが引き起こされることを懸念しているからです。