1概要
ベトナム戦争
終戦後北部にベトナム民主協和国が樹立され、1954年にはジュネーブ協定によってベトナムが南北に分断されたというのはみなさんもきっとご存知だと思います。 この戦争は一部から冷戦の主人公たちが繰り広げたhot warとも呼ばれるほど、世界的に政治的な意味合いを持ったものだったと言われています。
ジュネーブ協定後南ベトナムではアメリカがサポートするベトナム共和国ができますが、汚職まみれだったと言われる政治で国民から不満がつのっていたそうです。 そこで北ベトナムが南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成、内線が始まってしまいます。
北ベトナムにはロシアの後ろ盾がついており、アメリカは南ベトナムを支援していました。 冷戦の真っ最中だったロシアとアメリカ。アジアにおける共産主義の広まりを恐れたアメリカはこの戦争に負けるわけにいかず、南ベトナムに軍隊を派遣、また北ベトナムに255万トンもの爆撃を行ったりと軍事介入を始め、対する北ベトナムはゲリラ戦線で対抗しました。 ベトナムの内戦、とは済ませられない歴史的背景をもつベトナム戦争。どちらの側でもたくさんの人が亡くなり、死者には民間人200万人を含むと言われています。
南ベトナム民族開放戦線(ベトコン)
共産党を中心に農民や労働組合、学生などもメンバーとなり、アメリカサイドよりベトナム人の共産主義者と呼ばれ恐れられました。民衆となんらかわりない格好をしていたため区別がつかず、結果的に犠牲者を増やしてしまったとも言われています。 ゲリラ攻撃、と呼ばれる攻撃が有名ですね。1973年にパリ和平協定が成立しアメリカ軍が撤退した後、解放戦線軍は対南ベトナム政府軍との内戦に勝利しました。
クチトンネル
全長250mにも及び地下にはりめぐらされていると言われています。南ベトナム民族開放戦線のここでの抵抗が、勝利をもたらした要因のひとつという見方もあるほど、ベトナム戦争ではキーとなった場所です。中は大人が身をかかめて、這ってやっと進めるくらいの大きさしかありません。 厨房などもあるそうで、ここで生活をしていたというので驚きです。戦時中の人々の生活がどれほど過酷なものだったか垣間見れる場所でしょう。
2現地の様子
活動の様子
3参加者の声
“ベトナムが戦争で傷ついた歴史が今でも人々の心に強く残っていることを知りました。戦争の記念館やクチトンネルに行って、その悲惨さに目をそらしたくなるようなものも、たくさんありました。”
“戦争証跡博物館やクチトンネルに訪れて自分のベトナム戦争に対する知識の浅さを感じました。枯葉剤の影響を受けた人たちの写真をたくさん見ましたが、自分が想像していた以上の衝撃を受けました。”
“クチトンネルは、事前に学習しようと思って見てきたベトナム戦争のDVDの映像の世界が、そっくりそのままあって、じめっとした空気やうっそうとした雑木林など実際にそこに立つことで、当時のベトコンとアメリカ兵両方の気持ちを想像することができました。”
“クチトンネルや戦争博物館では、戦争の現状を知ることができました。病院や孤児院では、人一人の命を大事にすることを学びましたが、クチトンネルや戦争博物館では、大事にするべき命が無下に扱われていることに悲しさを感じました。”