カンボジアSDGs海外ボランティア研修への海外ボランティア
人々の優しさと暖かさに心を打たれました。
すごく良かった!
私は今現在将来何をやりたいのか見つかっていません。そんな自分に何ができるのか、自分を改めて見直すことに繋がると思い応募しました。また、常識というのは今までの人生で培ってきた偏見の塊と言い換えることができると言われたことがあります。自分がこれまで生きてきた場所から足を踏み出し広い世界を見ることにより、自分の人生における世界観としての視野を広げたいと思っています。
一部の都市化されつつある住宅街を除き、平野一面に広がる農村地帯に圧倒されました。かといって内戦からまだ間もない地域であるという様子は全くうかがえず、皆必死に生きている姿には目を見張った。これは日本ではあまり感じられない人々の姿であった。日本にそろっているような生活環境、交通の便利さはないが、今あるものを最大限に利用して生活する様子から、便利=幸せという今までの私の考えは大きく覆された。しかし私が何より衝撃を受けたのは子供達の学校生活だ。日本の学校では設備がきちんと整っていて快適に授業を受けられるようになっている。静かに授業を受けることが重要という印象が私にはあり、望めばいくらでも学べる環境にあるというにも関わらず、実際は陰で居眠りしたり内職をしたりという生徒が多いのではないか。かく言う私も恥ずかしながらその一員の一人である。私は子供達の通う小学校を見学させていただいた。もちろん日本の学校のようには設備はしっかりしておらず、必要最低限のものは揃っているという印象だ。教室の横を通ると何やらがやがやしているので中を覗くと、大きな声で先生と同じように教科書を読み上げる生徒がいるではないか。それも一人ではなく全員がそうなのだ。楽しそうに授業に取り組む姿勢はとても新鮮で、その勉強意欲には舌を巻いた。聞けばカンボジア語に加え日本語と英語も習っているそうだ。なんという語学力だろう。思えば街を歩けば日本語を流暢に話す人がたくさんいた。英語の授業を受けていたにも関わらず、まともに英語で受け答えできないというのが私の現状だ。素直にすごいと思った。私が見たのはほんの一部に過ぎない。だから皆がこのようだと思ってしまいそうだが、勉強を受けたいのに受けられないという子が大勢いるというのが現実だ。人々の生活に見いだす笑顔に心を洗われたと共に、国同士が助け合うことの必要性と重要性を感じることができた。
まずは目の前にあることをきちんとこなせるようになりたい。そして何より私が一番必要性を感じた英語を学びたいと思っている。子供達とは言葉が通じなくても心を通わせることができた。このことから人は言語の壁を越えて手を取り合えることを実感できた。人は他人と交わることなくして生きていくことはできない。だからこそ言葉が必要なのだ。気持ちを、考えを相手にきちんと伝えるにはやはり言葉が必要なのだ。言葉がわかればもっとたくさんの人と分かり合えるのではないかと思う。そして人と言葉を交わし立派でなくとも一人前の人間に成長したい。
楽しかったから。
ぜひ一度自分の足で赴き、自分の目で見てみてください。